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このパウロのテキストは混乱した神学的判断の古典的源泉になってしまった。
彼はエフェソで彼を訪問したキリスト信者から祈りの集まりで恍惚になり、異語を語る場面があったことを聞いた。
多分彼らは手を高く挙げ、しばしば東洋の儀式でするように頭を後ろに反らして祈ったのであろう。
これについての参照資料: R.E.WITT, Isis in the Greco-Roman World, Ithaca 1971;
J.Z.SMITH, Native Cults in the Hellenistic Period, History of Religions 11 (1971/72) pp. 236-249;
R. and K.KROEGER, An Inquiry into Evidence of Maenadism in the Corinthian Congregation, SBL Seminar Papers 14 (1978) vol. 2, pp. 331-346.
これは共同体の人々を狼狽させたに違いない。パウロはこれが共同体の秩序と平和を脅かすことになるので心配した。そこでこのような行為は止めるべきだと思った。事を複雑にしたのはキリスト信者の男たちが頭に覆いを掛けて祈るユダヤ教の習慣を捨てたからであろう。彼らはキリストの栄光を映し出すために「顔を隠さないで」祈ったのである。(二コリント3,18)
ある女性たちは何故彼女たちも同じことができないのかを尋ねたのかも知れない。パウロは何故ダメなのかを説明しようとした。
一コリント11,2-16について次の資料参照:J.B.HURLEY,Did Paul require Veils of the Silence of Women?, Westminster Theological Journal 35(1972/73) pp. 190-220. J.MURPHY-OCONNOR, Sex and Logic in 1 Corinthians 11, 2-16, Catholic Biblical Quarterly 42(1980)pp .482-500.
St Paul: Promoter of the Ministry of Women, Priests People 6(1992)pp. 307-311.
E.SCHUSSLER FIORENZA, In Memory of Her, London 1983, pp. 227-230.
「ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります。女はだれでも祈ったり預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです。女が頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。女にとって髪の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいことなら、頭に物をかぶるべきです。」(3-6節)
男と女の場合は異なるとパウロは主張する。何故なら、髪の毛を乱す女性は夫の恥である。それは姦淫の疑いをかけられた女性のしるしであった(民数記5,18)
熱狂的な信者が頭にかみそりをあてる東洋の儀式に言及して、パウロは「もしあなた方が彼らを真似るのならどうして頭を剃らないのか」と云う。
「男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物をかぶるべきではありません。しかし、女は男の栄光を映す者です。(7節)
というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。」(8-
9節)
パウロは自分の考えをさらに強調するために第二創造物語(創世記2,5-25)に根拠を置く一般に受け入れられているユダヤ教の議論を引用する。物語は男と女の平等性を教える筈であるが、ユダヤ教の注釈者たちはこれを女性の男性への依存の根拠として解釈した。彼女は男から出て、男のためであると。パウロはここで正当化する。
「だから、女は天使たちのために、頭に力の印をかぶるべきです。」(10節)
認識力というものは曖昧である。学者たちは度々『権威』を『権威の下にあるしるし』(被り物)であると説明する。パウロは女性が自分の頭をピンでとめて被ったりしてどうにかするべきだと多分指示したのかもしれない。これは尊敬と礼儀としてである。
そのように彼女の頭(と間接的に夫の)を守ることは彼女が『天使の言葉』を話す時に求められる。
参照:J.A. FITZMYER,A Feature of Qumran Angelology and the Angels of 1 Cor 11:10, New Testament Studies 4 (1957/58) pp.45-58.
M.D.HOOKER, Authority on her Head: an Examination of 1 Cor.11.10, New Testament Studies 10 (1964/65) pp.410-416.
A.FEUILLET,Le signe de puissancesur la tete de la femme (1 Cor.11,10), Nouvelle Revue Theologique, 55(1973) pp.945-954.
「いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男は有りません。それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべての者が神から出ているからです。」(11-12節)
注:ギリシャ語chôrisの訳は『自立している』より『異なる』の方がよい。 参照:J.KURZINGER,Frau und Mann nach 1 Kor 11.11f, Biblische Zeitschrift 22(1978) pp.270-275.
彼は自分の議論が誤解されるのではないかと恐れ、女性の基本的平等を断言している。キリストにおいてすべての者は平等であると。さらに、女が男から出たという議論はすべての男が女から生まれたとする。パウロは彼の以前の論法には不備があったことを認めている。
「自分で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのが、ふさわしいかどうか。男は長い髪が恥であるのに対し、女は長い髪が誉れとなることを自然そのものがあなたがたに教えていないでしょうか。」(13-15節)
パウロは今人の常識に訴える。長くて手入れされている髪は女性に栄誉を与え魅力的にする。彼女はそのように神に祈るべきではないのか。しかしパウロはこの議論は習慣と文化に条件づけられていて弱すぎると理解する。
「この点について異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣はわたしたちにも神の教会にもありません。」(16節)
パウロは彼の論法がさらなる議論に続くのを容認する。この慣例は秩序を乱すので許されることはない。「神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。」(1コリント114,33)
この箇所を分析するなら、パウロは本当に共同体の秩序と平和を嘆願している。それ故に彼は女性が長い髪の毛を垂らして祈るのを欲しない。しかし、すべての時代、文化の中で女性たちが教会でヴェールを被る規則をパウロが決めたとテキストから結論を導き出すのは誤りである。
また、パウロが女性の男性への従属に関して霊感を受けた教義を公布したのだと考えるのは間違っている。彼は当惑した牧者がするように、ただ単に自分の見解を述べ、話している事柄に持ち前の弱さを知りながら『口にだして』嘆願していただけである。そのような理由づけに教義上の重みを置くのは間違えであり偏っている。
私たちはパウロが私たちと同じような人間であることを忘れがちである。 何らかの行動をとるように人を説得しようとする時、私たちはありとあらゆる理由や動機を証拠として挙げるものである。 そのような理由づけは自分たちが望む支持をとりつけるためのものだということを知っている。 それは取り上げられて荘厳に宣言されないかもしれない。
Cora E.Cypser, The Perennial Problem of Sin から創世記の記述とそのテキストの解釈を新約の司祭伝承に参照しながら見るとよい。

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