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規則 4.著者の重要な宣言を単なる正当化と彼が使う人間の意見表現の通俗的な論法との間にある違いを区別しなければならない。
理由と正当化の間にはかなりの違いがある。自分の態度と行動に関してはそれなりの理由があるかも知れない。しかし時々私たちは自分を騙す。自分の本当の動機が理不尽であることを認めたくないので、見せかけの理由を考案する。これを『正当化』と呼ぶ。即ち、本当の動機は異なり、未知か無意識の行動を自分または他者に説明するために妥当な理由を用意するのである。
正当化は非常に人間的である。聖書も人間の手によるので「大衆的で、見せかけで、推論」を合わせ持つことができたのだろうか。答えは然りである。何故なら聖書にとり人間的でないものはないからである。
この理由づけについて四段階で検討しよう。
聖書は人間的手段と形を通して神が働く救済の一例である。
「神の実在のみことばが罪を除いて」(ヘブライ4,15)すべてにおいて人間と等しくなったように、人間の言葉で表現された神のことばは間違いを除いて人間の言葉のようになった。
ピオXII, Divino Afflante Spiritu, Denz 2294 (3229-3230)
イエス キリストが一日中説教された後に疲れを感じた。彼は力を回復するために飲食を必要とした。イエスは自分の体の中にあるすべて人間の限界を知っていた。彼は二つの手と二本の足しかなかた。彼は又同時に一箇所以上の所にいることはできなかった。人を冒すすべての不快と病を知っていた。私たちが死ぬ同じような境遇で死ぬことすら選んだ。すべてこれらの事実は神のおん子がどれほど本当に人間になったかを示している。しかし、すべてこれらの人間の限界は彼の限りない神性を損なうものではない。神は彼のおん子の人性を通して私たちを救うことを望んだのである。
「人間を通して働く神」の原則はイエスが制定された秘蹟においても同じように働く。司祭はいかなる国、いかなる社会的身分、いかなる知的背景からでも叙階され得る。司祭は片方の目や手がなかったり、悪い習慣を持っていたり、または罪人でさえあるかもしれない。それでも彼が捧げ物をする時や罪を赦す時、神は彼を通して救いの業を有効に行う。祭壇上のパンは四角であるか丸いか、カナダ産の小麦かナイジェリアのそれから作られているか、甘いか否か構わない、聖変化の後は本当にイエス・キリスト自身になるのである。言い換えれば神は人間的な方法で働く。手段の人間的限界はそれを通して働く神の救いを貶めることはない。
受肉のこの神学的原則は聖書の中でも認められるべきである。ここでも神が真に人間的手段を通して救いのみ業を行われる。霊感を受けた書はイエスの体と魂と同じように真に人間的であり、イエスの司祭と秘蹟は真に人間的なのである。聖書の言葉は人間の言葉のすべての限界を抱えている。特定の言語で語られ、不完全で、不正確、スタイルも内容も未完のものである。霊感を受けた著者も普通の人が持つすべての典型的な特徴を有している。自身の限界ある考え方の露呈、特有の関心や好みの固守、真実をかなり曖昧に、そしてある程度の自己矛盾を含めての理解と表現など。このように真に人間的でありながら、神はそれらを通して自分自身のメッセ-ジを効果的かつ実際に伝えるのである。聖書について知れば知るほどそれが如何に人間的であるかが分かる。しかしこれは彼らが霊感を受けたことに対しての主張として影響を及ぼすことはできない。イエスの神性に対して人性を主張するように。
受肉することは卑下を意味する。神の無限の愛が聖書の霊感を受けたことばに神聖なメッセ-ジを受肉させた。神は真に人間的な方法で私たちに話しかけたかった。神の人類への招きは抽象的な教義のテ-マの中で私たちに届く筈ではなかった。そうではなく、神は私たちの心に話しかけたかったのである。彼は私たちと論じ、説得し、迫り、懇願することを望んだ。自分の子どもたちに教える親のように私たちに話したかった。
正当化、個人の意見や会話の中でのいい加減な推論を使うのは聖書の人間らしさの一面である。
昔イスラエル人たちはすべての災難は具体的な罪の罰として何とか説明されるべきだと固く信じていた。例えば、飢饉がダビデ王の治世に起こった。神托は次のように言った。「サウロとその家族は殺人罪を犯し、彼はギブオンの民を殺した。」ダビデは調査し、サウロが10年ほど前にギブオン人たちを殺害していたのをみつけた。その時ダビデは彼らに近づき、彼らが彼に何をしたいかと尋ねた。
「あの男の子孫の中から七人を私たちに渡してください。私たちは主がお選びになった者サウルの町ギブアで、主の御前に彼らをさらしものにします」(二サムエル20,6)。
ダビデは合意し、彼はサウロの息子の中から七人を逮捕し、彼らに渡した。ギブオン人たちは彼らを処刑し、その遺体をギブアの神聖な場所の前にさらした。数ヶ月後遺体は引き取られて葬られた。「この後、神はこの国の祈りに応えられた」(二サムエル 21,14)
このような箇所を読む時、その解釈を特に注意しなければない。神があたかもサウルの罪の復讐を望んだかのようにみえる。「主は言われた。『ギブオン人を殺害し、血を流したサウルとその家に責任がある』(二サムエル 21,1)、そして遂に「その後神は彼らの祈りを聞き入れた。」 しかし、多くの例からそのように考えるのは間違いである。この種の出来事は率直な啓示ではなく、いかに人々が当時(ここでは紀元前1000年頃)神について考えていたかの記録である。霊感を受けたと考えるのは誤った正当化であった。
このような考え方に対する神の反応は他の箇所で明確にされる。初めヘブライ人は神が親の罪で子どもを罰すると確信していた。「私を否む者には父母の罪を子孫に三代、四代までも問う」(出エジプト 20,5)。上記の飢饉の例では人々は神がサウルの子どもたちを父親の罪ゆえに罰するのを望んだと思った。しかし神はこの考えを明確に訂正した。預言者エゼキエルは(紀元前580年)人は自分の罪のために罰せられ、善徳のために報いられるのだと遂に宣言した。親の罪に関して彼は言葉を和らげない。
「それなのにお前たちは、『何故子は父の罪を負わないのか』と言う。しかし、その子は正義と恵みの業を行い、私の掟をことごとく守り、行ったのだから、必ず生きる。罪を犯した本人が死ぬのであって、子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない。正しい人の正しさはその人だけのものであり、悪人の悪もその人だけのものである」(エゼキエル 18,19-20)。
同じ原則が掟の一般的規則となった。
「父は子のゆえに死に定められず、子は父のゆえに死に定められない。人はそれぞれ自分の罪のゆえに死に定められる」(申命記 24,16)。
ここには沢山の示唆がある。サウルの無罪の子どもたちが父親の罪ゆえに死に処刑されようとした時、これは神が望んだことではなく、イスラエル人がそう思ったことであった。それは彼らの正当化であった。神の望みをそのように想像して飢饉に用いたのである。即ち、この飢饉は私たちが犯した罪のためである。そうでなければ、神がどうして私たちを罰されるのかと。サウルのギブオン人たちへの不正によるに違いないと。もしサウルの子孫を罰するなら、神は満足し、罰を取り去ってくれるだろう。これはもう一つの正当化であった。
これでこの考え方は間違っていたことが分かる。飢饉は神からの罰ではなかった。彼はサウルの子どもたちの死について喜んではいなかった。唯一言えることは神がこの種の考えをはっきり正す時まで大目に見たのである。しかし、聖書に正当化があるのを正直に認めなければならない。
同じような話が二サムエルにあり、ダビデが人口調査を行ったことで伝染病が起こった。「私は重い罪を犯しました。主よ、どうか僕の悪をお見逃しください」とダビデは祈る(二サムエル4,10)。しかし、上歴代誌に掲載されている同じ出来事の記述ではサタンがダビデをそそのかしたとある。
「サタンがイスラエルに対して立ち、イスラエルの人口を数えるようにダビデを誘った」(上歴代誌 21,1)。
更に、理由づけの同じプロセスを見出す。伝染病が発生した時、人々は罪の容疑者を探した。それでダビデが人口調査をしたためだということになった。後に、彼らはサタンがそそのかしたに違いないと思った。しかし、人口調査を行うことは罪でもなかった。何世紀も後に書かれた荒れ野を旅したイスラエルの民の記述ではそれは義務として指示されている。
主はモ-セに言われた。「あなたとアロンはイスラエルの人々を氏族ごとに、家系に従って戸籍登録をしなさい。兵役に就くことのできる二十歳以上の者を部隊に組んで登録しなさい」(民数記 1,2-3)。
主はモ-セとアロンの子エルアザルに向かって言われた。「イスラエルの人々の共同体全体の中から、イスラエルにおいて兵役に就くことのできる二十歳以上の者を家系に従って人口調査しなさい」(民数記 26,1-2)。
また、同じ結論である。ダビデの同時代の人たちも伝染病はダビデがやった人口調査に対する神の罰ではなかったと思っていた。彼らの理由づけは正しくなかった。
イエスとその弟子がエルサレムの神殿の外を歩いていた時、同じ場面があった。使徒たちは生まれつき目の見えない男を見た。ユダヤ人にとり議論のための面白い話題であった。何故なら、この種の欠陥は罪の罰に違いないと思ったが、誰のせいか彼らは知らなかった。使徒たちはイエスに聞いた。
「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスは答えた。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ 9,2-3)。
目が見えないことは誰かの罪によるのではない。何千人もの人は不自由な目や他の障害を持って生まれてくる。これは罪によるのではない。何か超自然の説明を求めるのは正しくない。自然の不運によるものである。神殿の外に座っていた目の見えない男は「神の業がこの人に現れるため」に役立ったのである。
イスラエル人とモアブ人は敵対関係にあると公言して隣り合わせで住んでいた。モアブのメシャ王は彼の有名なステラ(紀元前830年)について彼が男、女、子どもを殺して、いかにイスラエルの町を彼の神『ケモシュに飽き飽きして』負かしたかを報告している。イスラエル人は同じような扱いをモアブにしたようだ。ダビデは「モアブを討ち、彼らを地面に伏させて測り縄ではかり、縄二本分の者たちを殺し、一本分の者は生かしておいた」(二サムエル8,2)。
そのような敵対感情は多分社会の中では極めて当たり前のことであろう。しかし、この種の憎悪を植えつけるような神の掟をどのように考えたらよいのだろうか。実際に起こったことは近隣の人々に対するイスラエルの敵意は神に投影された。正当化は神がこれらの人々を全く拒んだということである。モアブとアンモンに関しては申命記の掟が次のように規定している。
「アンモン人とモアブ人は主の会衆に加わることはできない。十代目になっても決して主の会衆に加わることはできない。あなたは生涯いつまでも彼らの繁栄や幸福を求めてはならない」(申命記 23、4,7)。
同じく和解できない態度はアマレク人に対しても課された。荒れ野の旅でのアマレクの反対を思い出し、掟は
「あなたの神、主が周囲のすべての敵からあなたを守って安らぎを与える時、忘れずにアマレクの記憶を天の下から拭い去らねばならない」(申命記 25,19)。
主はモ-セに言った。「ミディアン人を襲い、彼らを撃ちなさい」(民数記 25,17)ヨシュアは彼が攻めた町の全人口を滅ぼすことを誓わねばならない(ヨシュア 8,2)。サウルはアマレク人何人かを助けたので王位から退けられた(サムエル上 15,17-24)。他国への頑固な憎しみは合理化され、義務として命令された。申命記 7,2に要約されている。「あなたの意のままにあしらわさせ、あなたが彼らを撃つ時は彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない。彼らと協定を結んではならず、彼らを憐れんではならない」。そのような無慈悲な敵意は「自分のように隣人を愛せ」という神の掟と調和するのだろうか。
セデキア王の貴族たちがエレミアの命を奪おうと企んだ時、預言者は主に向かって叫ぶ。彼が自分の敵に主の天罰を祈り求めるその気持ちに同情できる。彼は彼らに対し神が飢饉、剣、伝染病、略奪者を送るようにと願う。そしてエレミアは具体的な悪を願うことを止めない。彼は続ける。
「どうか彼らの悪を赦さず、罪を御前から消し去らないで下さい」(エレミア 18,1-23)。
人間的に言ってそのような感情はよく分かる。然し同じ種類の祈りは神を特別に喜ばせる筈の祈りである詩篇にもある。下記に挙げるのは神が望む隣人への愛に反する嘆願である。
このように祈ったイスラエル人は神が彼らの側におられると正当化した。人間らしいが、正しくはない。実際、これらの詩篇は私たちキリスト信徒にとり余りに不快であるので第二バチカン公会議の典礼刷新の折に、祈祷書から外された。これで正当化が非常に注意して扱われなければならないということが分かったであろうか。
パウロは問題の核心を議論したい時、思い起こす限りの他より適切なあらゆる理由を挙げ、度々正当化する。そのような時パウロの独特の話し方から彼はそれらの考えを教えようとしているのではない。問題点を強調する「考え」に過ぎないのである。
パウロの書簡から有名な四つの例を挙げよう。常に構成は次の二点から成っている。 即ち、
a)中心点 と b)理由と正当化
ある手紙はパウロの弟子が書いたかもしれないが、類似した特徴があるのですべてを含めてパウロのものとして扱う。
テトス 1,5-13では「クレタの不従順な者たちを沈黙させねばなりません」(10-11節)。著者はさらに続ける。
霊感のもとで著者はクレタ人が何時でも嘘つきで獣で怠惰な大食漢と教えるのであろうか。明らかにそうではない。著者は人間的な正当化を付け加えたに過ぎない。
ロ-マ 1,18-32でパウロはギリシャ・ロ-マ世界の道徳的腐敗を描写する。彼の言わんとしているのは世界が『信心と不義』に充ちているということである。その理由として:
同性愛についてパウロが示す説明は明らかに正当化である。即ち、普通の人を躓かせたヘレニズムの世界でよく知られた同性愛乱行の典拠である。しかしながら、この箇所はいわゆる同性愛を非難するために使われるべきではない。人口の10%が同性愛志向で生まれることをが分かったのはまさしく現代で、パウロはこれに関する司牧上のデリケ-トな分野に立ち入ることは考えていなかった。
一コリント 11,2-16でパウロの主な主張は女性たちがキリスト教の集会では被り物で髪を覆うことを望むことである。
パウロは次から次へと理由を積み重ねているのが正当化だと自分でも分かっていることは明らかである。それ故に女性が男性に従属するべきとの教えが霊感によるものだと暗に意味する。特に3-5節の正当化をそのまま受け入れるのは道理に合わない。しかし、これは教父、教会法学者、神学者たちが主張し、女性叙階に関するロ-マの最近の文書にも無条件に繰り返されている。
一テモテ 2,11-15での主なポイントは「女性は静に、全く従順に学ぶべきです」(11節)である。ここでパウロは自分の推論を付け足す。
ここに沢山の正当化が見られる。即ち、偏見に充ちた祭司的解釈に基づく慣例(1)と聖書的な理由(2,3)など。男も女も神のかたどりとして同時に創造され(創世記 1,26-27)、アダムは同じように罪を犯した(創世記 3,6-7,16-19)。残念なことに、ここでも女性への永続的且つ終りのない偏見を暗示する正当化がなされている。
ここに沢山の正当化が見られる。即ち、偏見に充ちた祭司的解釈に基づく慣例(1)と聖書的な理由(2,3)など。男も女も神のかたどりとして同時に創造され(創世記 1,26-27)、アダムは同じように罪を犯した(創世記 3,6-7,16-19)。残念なことに、ここでも女性への永続的且つ終りのない偏見を暗示する正当化がなされている。

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