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女性は司祭になってはいけないのだろうか?
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カトリック教会が預言的使命を果たすためには、この変化する時代に自らを適応し続けなければならない。 世界中で大多数の国が男女間の不平等を廃止し、平等を促進しようとしているのに、教会が女性司祭職を今日に至るまで禁止し続けていることを憂慮しているのではない。 時代は変化しているのだから、教会も変わらなければならない。
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過去の偏見から解放されて |
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女性は100年前一般的に社会の中でそうであったように、教会内で場がなかった。 女性はメンスの期間や出産後には聖体を拝領することが許されなかった。教会の建物に入る前に「潔められ」なければならなかった。(*)女性がカリス、パテナ、祭壇掛などの「聖なる物体」に触ることは固く禁じられていた。(*) 勿論、聖体を配ることもできなかった。(*)教会内で女性は常にヴェ-ルを被らなければならなかった。(*) 女性は下記のことから排除されていた: すべての中で最も重大な制約:女性が聖なる叙階から排除されていたこと。(*) 彼女たちは司祭になることができなかったこと。 |
女性に対する殆どの制約(*)は今では解除された。しかし女性の司祭叙階だけは未だに禁止されたままである。 | ||
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新たな夜明け |
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私たちの時代に新しい人権意識が目覚めた。男女の基本的な平等性と機会均等を保障する必要性など。それにより女性への態度はカトリック教会内でも変わり始めた。 今では、女性が朗読、ミサの侍者、聖歌隊、説教、祈祷会でのリ-ダ-、洗礼と聖体の奉仕者になることは「暫定的に任命される」ことは許される。 |
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誰が女性叙階に反対しているのか? |
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ロ-マの教理省や教皇に忠実な保守的な神学者たちは過去の女性に対する他の制約が社会的偏見によるものであるのに、女性叙階の禁止は変えることのできないカトリック教義であるという立場を保持する。 「イエス自身が女性を司祭職から除外したのであって、教会は常に彼の範に則って、女性を叙階してこなかったのである。」と彼らは言う。 |
![]() 要約されたロ-マの論拠を見よ。. |
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これは明らかに深刻な問題である。 もし教皇が特殊の教えを持ったとしても、すべてのカトリック教徒はそれを受け入れなくてもよいのではないか? 普通には然りである。 しかし、教皇が誤っていることが分かるような例外的な場合、忠実なカトリック教徒として、それへの反対を表す義務がある。教皇ベネディクト16世が自分で認めているように: 「教会の権威による拘束を要求する教皇より上に自分自身の良心があり、何を置いてもそれに従わなければならない。たとえ教会の権威が要求しても。」 もし教皇と教皇庁の長官たち、また、多くのカトリック神学者たちが女性に関して間違っているなら、現代の根本的な司牧上の問題であり、教会に多大の害を及ぼすのである。 |
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これは単なるジェンダ-の問題ではない。 |
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多くの人にとり、これは「平等」の問題、「フェミニスト」問題に過ぎないように見えるかもしれないが、そうではない。 私たちカトリック教徒にとり、キリストの真意と伝統の本来の意味を判断することは常に重大なことであった。 女性が叙階されるべきか否かの問題は、社会的な圧力をかけることで解決することはできない。 *イエス自身は本当に女性を排除したのだろうか?
以上が議論の最終的な結果を決める問題点である。 |
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イエスは何を望んだのだろうか? |
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イエスにとり女性も男性も同等であったことは福音書から明白である。 旧約では男性のみが割礼を受けたが、洗礼を通して女性も男性も『神の国に入る』のである。 洗礼により、女性も男性もイエスの王職、イエスの予言職、イエスの司祭職に参与するのである。 最後の晩餐でイエスが「これをわたしの記念をしてこれを行いなさい」と男性と同じく女性にも言われたことは重要である。それによって、彼は感謝の祭儀を女性も司るようエンパワ-された。
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では、イエスはなぜ12使徒に男性のみを選んだのか? 多分、ユダヤ人を選らんだと同じく、実際的な理由で。 イエスが後々のためにここで一つの規範を設定したと推定するのはまったくの誤りであろう。 他の多くの箇所と同じように、イエスは必要に応じて後世の教会にいろいろなことについて『展開』させることを委ねた。 |
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| 初代キリスト教共同体は女性を奉仕職から締め出していたのだろうか? | |||
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パウロの書簡にある女性が頭に被り物をするべきとか、夫に従うべきとか、教会の中でしゃべるなとか云う表現は女性叙階禁止を意味していると解釈されてはならない。 パウロがフェベを「ケンクレアイの教会の助祭」(ロ-マへの信徒への手紙16:1)として認めたのを忘れてはならない。 一世紀には女性たちは助祭を含めて教会の責任ある奉仕職についていた。 歴史的証拠はカトリック東方教会で、女性たちが10世紀まで「助祭」として奉仕していたことを示している。 彼女たちは男性の助祭と同じように、完全な秘蹟である叙階を通して助祭になったので、実際には女性は司祭職に付ける聖なる叙階を受けたのである。 |
『女性助祭』の忘れ去られた物語はそれ自身この問題に決まりをつけるのに十分である。 |
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初代キリスト教共同体は奉仕職から女性たちを除外したのだろうか? |
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教会史の殆どの時代において三重の偏見によって、女性たちを司祭として受け入れることを拒んできた。 |
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1. ギリシャ哲学は女性を不完全な人間と看做した。「男と女の関係は本質的に男がより高等で、女は劣等なので、その結果、男が治め、女は支配される」(アリストテレス) キリスト教が取り込んだロ-マ法は女性が公的責任を担うことを禁じた。 従って、如何にして司祭職に伴う指導的役割を女性に与えることができたのだろうか? |
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. 女性がこの世に原罪を持ち込んだ責任を担って、以来彼女たちは誘惑の根源なのである。 「女性よ、あなた方一人ひとりはエバであると知らないのか? あなたの性への神の宣告は今に至るまで生きているのだ:今も有罪なのだ。」
そのような罪深い被造物がどのようにして神の恵みの道具になれようか? |
テルトリアヌス(155-220AD) |
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3. カンタベリ教区の宗規(690 AD)
女性は如何にして内陣、特に祭壇の神聖さを汚すことが許されれたのだろうか? |
教父たちによれば St Augustine of Hippo(上)とSt Jeromeはすべての性は罪に汚されていて女性の子宮は「非常にむかつく」 |
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このような偏見は文化的な起源であるのに、神学的な偏見、教会の思い込み教義の偏見になったことに気づくべきである。 これらの偏見が女性を司祭職から排除している真の理由であった。それは教父たちの著書、地方の教会会議の法規、教会法、中世の神学を見れば明らかなことである。 女性を叙階しないといういわゆる『伝統』はいい加減なものである。聖キプリアヌスが適切に述べたように「真理のない慣習は過去の誤り以外のなにものでもない」(書間77、9) |
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| 女性の叙階はキリスト教の伝統の中にはないのだろうか? | |||
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まず、女性たちは前に述べたように助祭として秘蹟として叙階されていた。トレント公会議によれば、秘蹟は助祭職を含む聖なる叙階の唯一の秘蹟しかない。 |
「何百万もの忠実な人たちの良心の神秘である真実について正式に表現されないで何世紀も過ぎ去るかもしれないが」 ニュ-マン枢機卿(上) |
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| 女性を聖なる叙階から排除する神学的理由があるのだろうか? | |||
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ロ-マの神学者たちはキリストが男性だったから、キリストは男性司祭によってのみ聖体祭儀で代表されると主張する。 議論はすべての女性を「男のできそこない」と見なした中世の神学者たちから受け継がれている。彼らが完全な男性、男性司祭のみがキリストを代表すると考えたのは驚くに当たらない。
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すべての女性は『欠陥のある男性』、『偶有的に生まれ』『自然の化け物』である。トマス・アクイナス(上 |
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| 不可謬の教義なのか? | |||
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ロ-マは問題はすでに「不可謬」として決定されたと主張して、現在ある混乱に追い討ちをかける。これは教皇によってではなく、いわゆる「教導職」によってである。即ち、世界中の司教団の権威によってと云うことである。 例外はあるが、一般的にいって、司教たちが女性を司祭に叙階しないし、普通、この問題に関して何も云わないので、彼らは全員一致でロ-マに同意していると考えているようである。 |
すべての司教 全司教団が場合によっては不可謬の権威を行使する。 | ||
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しかしながら、権威によるそのような不可謬行為のための条件は満たされていない。公会議は不可謬性に厳しい制限を定義している。 五つの条件: 1. 司教たちは神のみ言葉を聴かなければならない。 2. 「信者の信仰のセンス」(カトリック教徒が「自分たちの心で」正しいと思っていること)に耳を傾けなければならない。 3. 司教たちは一つの体として自分たちの権威を行使しなければならない。 4. 司教たちは自分自身が熟慮した意見を表明するのに自由でなければならない。 5. 司教たちは決定的なものとして受け入れられるように教義を出すべきである。
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ピオ十一世教皇は奴隷制を許しながら、良心の自由、表現の自由、礼拝の自由と教会外の救いを非難した。すべてこれらの教義は第二バチカン公会議で誤りだと立証された。 |
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この問題はどうなるのだろうか? |
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近年、一部の女性たちは匿名の司教によって叙階された。今日では更に多くの女性が叙階されるように、女性の司教もいる。自らを「カトリック」と呼んでいるが、実際には分派を創っている。 この方法が正しいと私たちは思わない。従って、このような不法な叙階を奨励しない。いつか、男性と同じく女性が叙階の奉仕職に選ばれるために、まず、教会内の意識を変え、中から教会を改革するのが私たちの使命だと考えている。 公けの教会は他の沢山の問題に関して行ったように、その良識のセンスに立ち戻る日が来るであろう。そのような時まで、私たちは責任あるカトリック信者として自分たちのなすべきことの責任逃れをしてはならない。カトリック教会内で女性の叙階が可能になるというキリストの全きみ旨が実現されるまで、声を挙げていかねばならない。 |
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| ここで議論を始めよう! |

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