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第二バチカン公会議は通常普遍的教導職をより明確に説明し、その不謬の教えの条件を表明した。
「各々の司教が不謬の特権を持っているのではない。しかし、彼らが全世界に散在している時も、相互の間とペテロの後継者との交わりのつながりを保持しつつ、信仰と道徳に関する一定の事がらを真正の敬意を用いて教える。
このことは、彼らが公会議に集まり、その中で全教会のために信仰と道徳の師および判定者の役目を果たし、彼らの決定に信仰の従順による同意が要求される時にはなおいっそう明かである。」Lumen Gentium 25d-e.
この公会議文書とその他の文書から、そこに明らかに五つの条件があることが認められる。
これらの条件を詳しくみてみよう。
「各々の司教が不謬の特権を有するのではないが、しかし彼らが全世界に散在している時であっても、彼らはキリストの教えを不謬として宣言する。」
文章の全般は個人の司教に不謬の特権を否定しながら、司教が司教団として述べる時には『彼ら』は不謬性をもって話すことができる。換言すれば、不謬の特権を有するのはそのような司教団なのである。それで、もし個々人の司教が不謬でなくても、何人かただ集まっても不謬にはならない。現実に司教による不謬の教説は彼らの教導職の権威を団体として用いねばならない。勿論このために司教団の頭として教皇の参加が必要である。
司教団は公会議に集まる時だけでなく世界中に散らばっていても、キリストの教えを不謬に述べることができる。しかし問題は散在している司教団がいかに団体として教えることができるのだろうか。フランシス・サリバン(Francis Sullivan)は幾つかの選択肢を挙げている。
「教義上の決定の宣言は司教団が厳密に団体として、信仰の事柄について決定する教導職の特別な行使である。今までこれは司教が公会議に集まった時にだけ可能であった。従って、歴史的には司教団が不謬の教義上の決定をする条件は公会議に参集した時である。」
「問題は将来物理的に同じ所に参集しないで、厳密に団体としてそのような決定を行うことが可能かどうかということである。現在の進んだグロ-バルなコミュニケ-ションの手段を使えば、公会議場に実際に集まらなくても可能である。」
「もう一点は、同志の司教によって選ばれ、権威を帯びた司教団が教皇とともに最高の教導職につき、信仰の教えを決定できるかどうかということである。最初の一千年の公会議では全西方教会はロ-マの司教の特使であるニ、三人の司教で代表されていたので、全司教団の権威がその選出された代表たちによって行使されるのは不可能なことではなかったであろう。そのようなグル-プは教皇と一致して決定しなければならない。この点では1965年パウロ六世が設置した諮問機関としての教皇の顧問会『司教会議』とは区別されねばならない。」
Francis A. Sullivan, Magisterium, Teaching Authority in the Catholic Church, Gill & MacMillan, Dublin 1983, pp.100-101.から
真の『団体としての行動』は教皇が各司教や司教協議会と審議するだけでなく、司教間の自由な討議をも必要とされることは留意されなければならない。
所見:女性叙階に関してはこのような全世界の司教の団体の関与は行われたことがない。
『彼らは普遍的教会のために信仰と道徳の教師であり判定者である...』
もし人間の活動に十全な審議と選択の自由を伴わないなら、有効でないということは倫理神学と教会法の一般的原則である
「司教団が一定の教説を決定するためには、彼らは『信仰の判定者』として熟慮して自分の役目を果たさなければならない(教会憲章25)。このためには司教は自分自身が判断したことを自由に表明するという条件が満たされなければならない。云いかえれば、彼らの見解を表明するのに真の自由が奪われるような圧力や強制があってはならない。第一バチカン公会議についての先世紀と最近なされた批判によれば、教皇ピオ九世が司教たちに圧力をかけたので、公会議の審議は真に自由ではなかったということである。私の知る限りでは第一バチカン公会議の擁護者は誰も彼らの論争の一大前提を疑問視しなかった。即ち、司教団が教説を決定するために要求される意思決定のためには強制から自由でなければならない。同じことが今司教団に適用される。」
Francis A。Sullivan, Matisterium, Teaching Authority in the Catholic Church,Gill & MacMillan, Dublin 1983, p. 101 から
所見:司教に十全の知識があるか、現在の教会内の雰囲気の中で彼らに自由があるかどうかについての正当な疑問がある。
(1)反対派の神学的意見の激しい圧力があるため、司教がこの問題について聖書と伝統から充分な情報を詳しく知っているかどうかは疑わしい。確かに殆どの司教は大多数の神学者が女性叙階に対する基本的な反対が分かっていないという事実についての充分な認識がない。
(2) ロ-マが司教にロ-マの考え方に同調させようとかなりの圧力をかけた証拠がある。公式、また個人的な通信を通して女性叙階の議論の提案に厳しく反対するように司教たちに通達されていた。「司教は司牧上の手腕とリ-ダ-シップを発揮して個人であれグル-プであれ、進歩、人権、同情などいかなる理由であれ、女性叙階を支持する者の支持を断固拒否すべきである」(1983年9月13日オセルバトレ・ロマノ紙、教理省書簡)。道徳的圧力をかけるロ-マのこのような行動は多くの司教の自主的『信仰の判定者』としての能力を無効にしてしまう。
云うまでもなく同じ条件が教皇にも適用される。「教皇は健全な精神と圧力ぬきに物事を明らかにする決定を下さなければならない。でなければ、教皇は彼の教導職の最高権威を行使しているとは云えないのである。」(F.Sullivan、同上)
教皇の不謬の宣言に教会の同意を要求した1682年のフランスの聖職者の項目に対し、第一バチカン公会議はキリストの教会に関する教護憲章の中で『ロ-マ教皇の決定は教会の同意なしに、それ自体で改正できないものである。』とした。(Pastor Aeternus.11 )不謬性の条件としての同意は教皇と司教の教導職の権威を無効にすることになる。
然しながら、これは教皇または、司教団も自分たちで教説を作れるということではない。彼らは『信仰の遺産』の中に見出せる教えを提示することができるだけである。それは信徒を含む全教会の明らかで、含蓄的な信仰の意識に伝えられたものである。第二バチカン公会議はそれについて言及している。
Lumen Gentium 25(k):「ロ-マ教皇と司教たちは彼らの義務と事柄の重大さを意識して、この啓示を正しく探求し、適切に告げるために、妥当な手段を用いて熱心に努力する。ただし、彼らは信仰の神的遺産に属するような新しい公けの啓示を受けない。」
解説:『正しく探求するための適切な手段』とは聖書と伝統からの論争について公正で徹底的な探求と、その問題に関して力量があり、信頼できる、しっかりした神学者に相談することを明らかに意味する。
Lumen Gentium 12(a) 「神の聖なる民は、キリストが果たした預言者としての任務にも参加する。神に信仰と愛の生活を通してキリストについての生きた証しをたて、賛美の供え物、すなわち、神の名を讃える唇の果実を神に捧げることによって行われる。聖なる方から塗油を受けた信者の総体は信仰において誤ることができない。」
Lumen Gentium 35(b) 「キリストは自分の名と権能によって教える聖職位階だけでなく、信徒を通しても、自分の預言職を果たすのである。このためにキリストは信徒を証人に定め、信仰の理解(信仰の感覚)とことばの恩恵を授けて、福音の光が家庭と社会の日常生活の中に輝きわたるようにした。」
解説:教皇と司教は信仰の感覚に注意を払わなくてはならない。即ち、教会の全体的な預言職と教会の誤りえないことに参与する信徒が感じ、また体験する信仰の意識のことである。
Dei Verbun 10(d). 「この教導職は神のことばの上にあるのではなく、むしろ、これに奉仕し、伝えられたことだけを教えるのである。即ち、神の命令と聖霊の助けによって、神のことばを敬虔に聞き、聖く保存し、忠実に説明し、そして、信ずべき神の啓示として宣言するすべてのことを、信仰のこの唯一の遺産から汲み取るのである。」
解説:教皇と司教は教導職において教会の信仰に依存する。サリバンから引用するなら、「しかしながら、第一バチカン公会議は教皇が宣言する際、司教の同意に法的に依存することを除外するが、教会の信仰に対し教皇が定義する際に真の法的依存を除外しないし、できないことに気づくことは重要である。何故なら、教皇(と司教)は啓示に含まれていることのみを信仰の教義として宣言できるからである。啓示憲章は『神のことばの一つの聖なる委託物が教会に託された』(啓示憲章10 )と述べていて、『その教義と生活と典礼とにおいて、自らあるがままの全てと、信ずることの全てを永続させ、あらゆる世に伝える』(啓示憲章代8)教会なのである。もし教皇が神に啓示されたと宣言できる前に、彼は『神のことばを敬虔に聞かねばならない』(啓示憲章10)し、『教会の教義と生活と典礼において』伝えられ(啓示憲章8)、教皇が教義を宣言する前に教会に耳を傾けなければならないのである。教皇は教会の信仰生活に見出すことのみを教義として宣言できるのである。第一バチカン公会議が既に云ったように、聖霊の啓示によって教皇が新しい教義を宣言するのではなく、むしろ聖霊の助けにより彼が使徒から伝えられた啓示を護り、説明するように、彼に聖霊が約束されたのである。そして、教皇(と司教)は実際に教会の信仰に意見を求めないで信仰の教義を簡単に宣言できないと続く。何故なら、彼らは教会の教義と生活と典礼とにおいて伝えられてきたことのみを教義として宣言できるからである。」(Magisterium, 同上 103 ~104頁)
「第二バチカン公会議は教皇の不謬性の教義の明確な記述に第一バチカン公会議においてガッサ-(Gasser)司教にその注釈に紹介した幾つかの解明を編みこんだ。即ち、(1) 公会議は教皇について、普遍的司牧者と私的個人との違いを明確に区別した。(2) 教皇が調査の適切な手段を用いる必要性のあることに言及した。(3) 特別教導職を正しく行使するには全教会の同意は不可決であることを求めた。」Richard R. Gaillardetz, Teaching with Authority, A Theology of the Magisterium in the Church, Liturgical Press, Collegeville 1997, p.219.
所見:教皇も司教も充分に教会の信仰に意見を求めたようには見えない。
(1) かなりの数の信徒は私たちのキリスト教伝統に女性を聖なる叙階から排除する正当な理由がありえないと深く確信している。この確信はロ-マの反対にも拘わらず、特に普通の信徒がよりよい神学的教育を受けている国々において、益々広がってきている。
(2) 無所属の神学者の大多数は聖書と伝統の研究も神学的考察も現行の女性司祭禁止を正当化できないと思っている。この確信は神学者たちを黙らせようとのロ-マの企てにも拘わらず、明白に表現されている。
『通常教導職』は信仰の遺産の範囲以内の事柄に関したり、またはそれに必然的に関連した事柄を不謬として教えることができるのは明白である。
不謬の教えの対象はいろいろな公会議で説明されてきた。
「この真理と規律は書かれた書物と、書かれていない伝承とにふくまれている。伝承は使徒たちがキリスト自身の口から受け継ぎ、または霊感によって、手から手へ渡すようにして、使徒たちから我々に伝えられたものである この伝承とまた信仰と道徳に関する伝承も、同じようにキリストによって口授され、聖霊が書き取らせ、カトリック教会の中に受け継がれたのである」トレント公会議(1546年)、Decree regarding Scripture and Tradition.3
「神なる贖主は自分の教会が信仰と道徳に関する教義の決定に際して、不謬であることを望んだが、この不謬性は大切に守られ、忠実に説明されなければならない神の啓示の遺産と同じ広がりを有する。」第二バチカン公会議(1964年)、Lumen Gentium 25(f)
所見:女性を叙階するかしないかを不謬の教義の正当な対象になるかどうかを問題として検討に付すことができる。
イエスキリストは地上に『父のみ国』をつくるビジョンを持っていた。神学者たちの一致した意見は、イエスが現在のような制度化された教会をたてることを直接意図されなかったということである。彼は確かに詳細にわたって制度的な組織を計画していなかった。叙階の秘蹟は時間に制約のある情況の中での文化的な圧力に応えて今の形をとるようになった。E. Schillebeeckx著、Kerkelijke Ambt, Overveen 1980を見よ。
教理省は叙階の対象となるジェンダ-について、それが啓示された教えの部分であるか、必然的にそれと関係があるかについて説得力のある議論を提出していない。
ドミニコ会士のエドワ-ド・スキレベックス(Edward Schillebeeckx)は女性叙階に関する宣言の不謬性は教会の慣例のことで、私たちの信仰の核心ではない故に、教義上ありえないと言った。(1995年12月8日付National Catholic Reporter)
司教たちが不謬の通常教導職を行使するには、彼らは一定の教説を決定的なものとして(tamquam definitive tenendam)認めるべきであると全員一致で述べなければならない。(教会憲章25d) 公会議中のこれに関する説明は『司教が信徒に決定的な同意を要求する時、司教は最高の権威をもって信徒に変更不可能な同意を求めるのでる。』
Karl Rahnerは教会憲章のこの短い文章についての解説の中で条件の趣旨を指摘している。
『テキストは通常教導職の不謬の教えには問題がありうるとはっきり述べている 全司教団が信仰または道徳の事柄を『決定的なものとして』(tamquam definitve tenendam) 全員一致で提議する場合のみ、絶対的に正確で、不動の同意が求められている それ故に、全司教団が満場一致で教える教義全部が、たとえ信仰と道徳に関するものであり、そのように意図されていても、それ自体不謬ではない。1962年11月10日の草案no.30、29~31はtamquam definitive tenendam(『決定的なものとして』)の言葉が入っていない。これは最終のテキストの意図を判断する上で非常に重要なことである。このように規定された全員合意のみが提案された教義の不謬性について用いることができる基準である。テキストはこの特別な全員合意を信じなければならない信徒が如何に確かめるのかとか、時には現実的な結果である難しい疑問を勿論取り上げえていない。』Karl Rahner, Commentary on the Documents of Vatican II, New York 1965, 210~211.
ラ-ナ-はSacramentum Mundiで『教導職』に関する彼の記事の中でこの問題を解明している。
『全司教団の通常教導職が公会議の外で、又は、よくあることだが、教皇の定義づけなしに教義を教える時、教義が全司教団の全員一致で提起されるだけでは充分ではない。教義は『決定的なものとして』はっきりと提議されることがさらに要求される。(教会憲章25)従って、信仰に関する教会の教義の事実上の普遍性は充分ではない。過去においては度々現実的な結果を伴って、教義は教会の中でかなりの期間明らかに目立つ矛盾なしに一般的に教えてこられたという理由のみで、変更不可能だと想定されてきた。この見解は事実に反している。何故なら、かつて普遍的に保持されていた多くの教義は疑わしく、間違っていて、基本的に受け入れられないと立証されたからである。』Magisterium, Sacramentum Mundi, Herder and Herder, New York-Dublin, vol.III,p.356を参照
所見:司教団は女性の叙階の禁止を決定的な教義とすることを提案しなかったのである。
異議?ロ-マは全司教を代表して意見の述べることかできないのだろうか。答えはノ-。教皇が真に司教たちに意見を求め、彼らが事柄についての完全な知識を持ち、強制されずに、自由に事柄について『判断』し、自分たち自身の意見を表明して、司教団としての責任を遂行するまではできない。
普遍的教導職は不可謬の権威を持って、女性の司祭叙階が禁止されたと決定は下していない。何故なら、その根本的な条件は何一つ確実に充たされていないからである。
従って、ここに神学的原則が適用される。「いかなる教義もそのことが明白に表明されていない限り、不可謬的に決定されたものとはみなされない」(Canon 749、3)
世界中の一流神学者がいかに教理省の主張する『不可謬性』を却下してきたかを見よ。Key theologians all over the world

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